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セシル郡()は、アメリカ合衆国メリーランド州の北東隅に位置する郡である。2010年国勢調査での人口は101,108人であり、2000年の85,951人から17.6%増加した〔Quickfacts.census.gov - Cecil County - accessed 2011-12-06.〕。郡庁所在地はエルクトン市(人口15,443人〔Quickfacts.census.gov - Elkton, Maryland - accessed 2011-12-06.〕)であり、同郡で人口最大の都市でもある。郡名は1632年からその死の1675年までメリーランド植民地初代領主知事だった第2代ボルチモア男爵セシリウス・カルバートから採られた。エルクトン市では「セシル・ホイッグ」紙が発行されている。 == 歴史 == セシル郡となった地域は、郡が設立される以前から重要な交易拠点だった。1674年、広大な領域だったボルチモア郡の北東隅から、ボルチモア卿の宣言によりセシル郡が設立された。セシル郡が設立された当時は、現在のケント郡の領域も含まれ、チェサピーク湾の東海岸から南のチェスター川まで広がっていた。ケント郡は1706年に分離、設立された。インディアンのピスカタウェイ族がコノウィンゴ近くでサスケハノック族と交易し、デラウェアバレーのレナペ族、エルク川やエルクネック半島の近くで同盟するナンティコーク族とも交易していた。ショーナス族と呼ばれることもある南部の部族も、後のメリーランド州北東部に移ってきていた〔https://www.ccgov.org/tourism/history.cfm〕。ジョン・スミス船長は1608年にこの地域を訪れていた。バージニアを本拠とするピューリタンの交易業者ウィリアム・クレイボーンはサスケハナ川の河口、現在のペリービル近くにあるガレット島で交易基地を築いていた。ボヘミアからの移民オーガスティン・ハーマンがセシル郡創設を運動し、1674年には地図を作成し、それと引き替えに広大な土地の払い下げを受けた。ハーマンはボヘミア・マナーを開発し、最後はそこで死んだ。初期の開発者には1683年にメリーランドの測量総監に指名されたジョージ・タルボットがおり、アイルランドのキャバン州バリーコネルから移ってきていた。 アメリカ独立戦争までのセシル郡は、植民地内向けにも海外向けにも重要な出荷拠点だった。土地で獲れる農産物ばかりでなく、西部から動物の毛皮、南部からタバコも出荷した。1704年にセントフランシス・ザビエル教会がイエズス会伝道所として始まり、1792年に再建され、州内最古クラスの教会となった。現在は博物館になっている。1706年に認証され1742年に再建されたセントメアリー・アン・エピスコパル教会も最古クラスの教会である。現在も使われ、歴史ある墓地を維持している。1744年に長老派教会の牧師サミュエル・フィンリーが設立したウェスト・ノッティンガム・アカデミーでは、ベンジャミン・ラッシュやリチャード・ストックトンを教えており、どちらもアメリカ独立宣言に署名した。この学校は現在も運営が続けられている。長老派教会の系列ではなくなり、また別の建物も追加された。1719年に設立されたプリンシピオ・ファーネスは、銑鉄の重要な輸出者となった。アメリカ独立戦争のとき、イギリス軍も植民地郡も郡内を移動したが、郡内で大きな戦闘は起きなかった。近くのデラウェア州ではクーチ橋の戦いが起こり、1777年夏にイギリス軍のウィリアム・ハウ将軍も、大陸軍のジョージ・ワシントン将軍もエルクトンに立ち寄った。1776年に地域代表として大陸会議に出席したロバート・アレクサンダーは、両軍と話をしたが、妻を残したままイングランドに亡命することを決めた。妻は忠実なメリーランド州民として留まり、州が押収したエルクトンの土地を生涯の資産として受け取った。 米英戦争では少なからぬ被害を受けた。イギリス海軍提督ジョージ・コックバーンはチェサピーク湾上流を封鎖しただけでなく、ウェルチポイントで銃撃を受けたお返しとして、その部隊がフレンチタウンと呼ばれた交易基地を破壊した。この部隊はエルク川を遡って郡庁所在地のエルクトンまで行こうとしたが、デファイアンス砦から砲撃され、また水路には太綱が隠されていたこともあって引き返した。イギリス軍は隣接するハーフォード郡ハバー・ド・グラースの大半も破壊した。コックバーンの艦船はその後ササフラス川を遡り、抵抗に遭い、ジョージタウンとフレデリックタウンを破壊した。防御が厚いという噂のあったポートデポジットは避け、重要な軍事目標であるプリンシピオ製鉄所を破壊した。 1812年にサスケハナ運河が開通した後はポートデポジットが繁栄した。ボヘミア・マナーで育ち、現在はウェストバージニア州のバースに移転した技師のジェイムズ・ラムゼイが蒸気船を発明して、ジョージ・ワシントンに見せた後、ロンドンに行って競合者ジョン・フィンチに対抗する特許を取得した。ラムゼイは1792年にロンドンで死んだが、その弟で弁護士のベンジャミン・ラムゼイが南のメリーランド州ジョッパに移転し、メリーランド州最高裁判所長官として25年間務めた。ロバート・フルトンの発明になる技術を使ったものなど蒸気船は、その後の数十年間は支配的な交通手段になった。1813年にフィラデルフィアで建造された''イーグル''は、ボルチモアからエルクトンまで乗客を運び、そこからは駅馬車に乗り換えてウィルミントン、フィラデルフィアなど北の目的地に向かった。1802年に試みられたエルク川とデラウェア州クリスティアナ、すなわちチェサピーク湾とデラウェア湾を結ぶ運河の建設は2年間で失敗した。しかし1824年から1829年、メリーランド州、デラウェア州、ペンシルベニア州からの財政的援助があり、2,600人以上の労働者が全長14マイル (22 km) のチェサピーク・アンド・デラウェア運河を建設し、この新しい国でしばらくの間は最も繁華な運河になった。現在でもアメリカ陸軍工兵司令部がこの運河を運営しており、1839年までボヘミア・マナーと呼ばれていたメリーランド州チェサピークには、この運河の重要性を説明する博物館がある。セシル郡やその周辺にとって、鉄道や橋も経済的に重要であることが分かった。ニューキャッスル・アンド・フレンチタウン鉄道が1831年に開通した。その後の30年間で鉄道が郡内を縦横に張り巡らされたが、交易の中心としての重要性は大きく減退することになった。フィラデルフィアやボルチモアのような大都市が郡内の小さなチェサピーク港に代わって規模の経済を実現した。1859年にフレンチタウンの鉄道が廃線になった後でもこの港はゴーストタウンになった(鉄道の他の部分は使われ、ノーフォーク・サザン鉄道が運行している)。 南北戦争のとき、郡内のペリービルが北軍にとって戦略的に重要な地点となった。ウィルミントンとボルチモアを結ぶ鉄道の中間点にあったが、ボルチモアに入る部分が破壊されたために、ペリービルで渡し船を使う必要があった。郡内で戦闘は起きなかったが、住民は南北の支持で大きく分裂した。郡内の奴隷の数は1790年の3,400人から1850年の800人にまで減少していた。地下鉄道 (秘密結社)が郡内を通り、おそらくは「戦うクエーカー」のジョン・コナードが支援していた。コナードは元アメリカ合衆国下院議員と連邦保安官であり、1834年から1851年は北東部に移転した後、1857年にフィラデルフィアで死に、セントメアリー・アンズ・エピスコパル教会で再埋葬された。フレデリック・ダグラスは1838年に自由を求めて北に行くときに、セシル郡を通っていった。ジェイコブ・トームはこの地域で財産を作り留まったが、他の者は経済的な機会を求めて去っていった。デイビッド・デイビスは1835年にイエール法学校を卒業した後にイリノイ州に移転し、エイブラハム・リンカーンの法律事務共同経営者となり、州議会議員や判事を務めた後、ワシントンD.Cに行ってリンカーンを助けた。リンカーンはデイビスをアメリカ合衆国最高裁判所判事に指名した。奴隷制度の廃止は土地の資産所有者やその奴隷の多くに影響を与えた。戦後、ペリービルは再び鉄道町となり、後にはサスケハナ橋を渡って移動する州間高速道の旅人に向けた事業ができた。セシル郡は州内でも裕福な郡だった時期があったが、近年は企業の誘致や観光・旅行業に努め、住民の平均年収は全米の平均に近い〔w:Maryland locations by per capita income〕。 セシル郡には多くのアメリカ合衆国国家歴史登録財がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「セシル郡 (メリーランド州)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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